太平洋戦争末期、空襲による被害を避けるため、国が大都市の児童約60万人を農村地帯などに一時移住させた「学童疎開」。
実施されてからことしで70年がたつ。近年、それにまつわる数多くの資料が見つかり、学童疎開の知られざる側面が明らかになってきた。
肢体不自由児たちの集団疎開である。
日本で最初に開校した肢体不自由児の学校・東京都立光明(こうめい)特別支援学校では、数年前から古い文書や撮影フィルムが相次いで発見されてきた。
そこには、昭和初期の開校当時から戦後に至る学校生活の様子が記録されている。
戦中から戦後にかけて校長を務めた松本保平さん(故人)が残した手記には、肢体不自由児の境遇をめぐるさまざまな出来事と思いが生々しくつづられていた。
国による学童疎開の対象から外された不安と憤り。しかたなく校庭に防空壕を掘り、都心部から通う子どもたちと教師が校舎で共同の避難生活を送ったこと。
それを他校の教員から非難され、子どもたちを非国民扱いされた屈辱。
そして、自力で疎開先探しに奔走した苦労・・・・・・。
最後に校長は問う。「光明学校が育ち盛りを過ごした太平洋戦争とは、一体何であったか」-。
肢体不自由児はなぜ学童疎開に不適とされたのか。校長と子どもたちは何と戦ったのか。
残された手記と記録フィルム、卒業生たちの証言から、肢体不自由児たちの生きた戦争を見つめる。
【News Source:2014.8.9 ETV特集】
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