今年8月末、「妊婦の血液によりダウン症が99%の精度で判明する検査が日本に導入予定」との報道があり、大きな波紋を呼んだ。これは、妊婦の腕からの採血で胎児のDNAを調べる新しい出生前診断の一種で、従来の羊水検査や絨毛(じゅうもう)検査に比べ、検査に伴う流産や早産などのリスクがないことが特徴の一つとされている。当初の報道では「特定の染色体に関する情報が、簡便に高い精度で分かる」ことだけが強調されたため、一般市民から医療機関への問い合わせが殺到。日本産科婦人科学会(日産婦)は関係学会と協力の上、「出生前に行われる検査および診断に関する見解」の追補案の作成や臨床研究の計画を進めているほか、11月13日には東京都内で公開シンポジウムを開くなど、事態の収拾を図っている。シンポジウムでは、各領域の専門家から日本での新出生前診断の導入に関するさまざまな意見が出された。
■米国では当局の規制対象外
ダウン症は、22対の染色体のうち21番目が生まれながらに1本多いこと(21番染色体異常)によって発症する先天性疾患。知的障害や心臓病など、さまざまな病気を合併する可能性が高い。染色体が1本多い「トリソミー」は、ダウン症の21番に加えて18、13番染色体がほとんどを占めている。
今回、話題になった検査は「無侵襲的出生前遺伝学的検査(NIPT)」と呼ばれる出生前診断で、「MPS」という方法で妊婦の血液中にわずかにある胎児のDNAの断片を解析し、遺伝子や染色体異常を調べる。海外ではすでに、いくつかの遺伝子疾患に関する出生前診断に利用されており、昨年10月には米Sequenom社が染色体(21、18、13番染色体異常)に関する検査サービスの市販を開始。高齢妊娠や羊水検査を受ける可能性が高い人々で、高い精度が確認されているという。
同社は民間研究施設として米当局の施設認定を受けているものの、販売する製品は米食品医薬品局(FDA)の規制の対象外。そのため、市販後調査や副作用(有害事象)の報告の義務はない。日本でも商業ベースでの利用が可能になる一方、適応などに関する十分な検討が行われないまま安易に使用され、中絶を選ぶ人が出てくるなどの懸念が示されている。そこで現在、日産婦は他の学会と共同で「出生前に行われる検査および診断に関する見解」の追補案の作成および臨床研究の計画を進めている。
■英国では健康保険使えず
Sequenom社がNIPTの検査キットを販売した当初、米国産科婦人科学会は「従来通り、年齢を問わず染色体スクリーニング、または羊水検査を推奨」として、NIPTに関する立場は明確にしていない※ 。
一方、国際胎児診断学会は米国でのNIPT開始に際し「緊急声明」を発表。NIPTを妊婦全員に行うことの有用性を示すエビデンス(根拠となる研究結果)はなく、低リスクの女性には推奨しないとの立場を明らかにしている。また、現時点で検査を考えている個人に対しては、その利益と限界を含む詳細な遺伝カウンセリング(遺伝に関する情報などを提供し、患者や家族が意思決定できるよう支援する医療行為)を受ける必要があるとの見解を示している。
すでにNIPTを用いて、幾つかの遺伝子疾患などの検査を提供している英国でも、国民保健サービス(NHS)が「ダウン症に関連する染色体検査のためのNIPTが米国や中国、香港などの民間企業により始められているが、NHSでは現在利用できない」との見解を発表。NIPTの疑陽性率(染色体異常でないのに「染色体異常」と診断されてしまう割合)を重視しており、「(羊水検査や絨毛検査などの)侵襲的検査による確定診断の前に行う検査」にすぎないとの立場を示している。
このように、多くの妊婦に染色体検査や遺伝カウンセリングが実施されている国々でも、現時点でNIPTの評価はかなり限定されているようだ。
■受けても受けなくてもストレス
日本ではこれまで、日産婦が着床前診断や絨毛検査、羊水検査などについて、一般妊婦への積極的な推奨は行わず、適応を厳格にすることで安易な使用拡大を制限していたため、「世界の中で実施率は極めて低かった」(横浜市立大学産婦人科教授・平原史樹氏)という。そのことから、日本ではこうした検査で必要な遺伝カウンセリングの体制が、発展途上にあることも指摘されている。
また、産婦人科領域でも遺伝学に関する教育はこれまで行われてこなかったといい、新たな遺伝子診断技術の進歩については「医師でも数年間の勉強が必要になるほど。新たな検査の概要や意義を、ほぼなんの予備知識もない一般の人にごく限られた時間で説明を行うのは非常に困難」との学会関係者の意見もある。
そもそも出生前診断は、受けても受けなくても当事者は不安や後悔、ストレスを感じることが多いといわれる。検査結果が現時点の医学レベルでは必ずしも治療や将来のポジティブな見通しにつながらないことがあるためだ。
当事者へのプレッシャーだけではない。NIPTは薬事上の規制がないため、一般の人が利用しようと思えば、医療機関を受診しなくても検体を送るだけで検査ができてしまう。今後、そうした状況が起きれば、十分な理解のないまま検査を受けた人が駆け込み受診をする恐れもあるという。
■全てが正常な遺伝子の個体は存在しない
さらに、日産婦のシンポジウムで複数の登壇者が指摘したのは、Sequenom社の検査が染色体異常の一部のみを対象としたものであることだ。日産婦は昨年、出生前診断を考慮する場合の基準となる条件を改訂したばかり。現行版では「その他、胎児が重篤な疾患に罹患する可能性のある場合」という項目があり、重篤な疾患については「成人に達する以前に日常生活を強く損なう症状が発現したり、生存が危ぶまれたりする疾患」との見解が示されている。
しかし、今回臨床研究が行われるNIPTの検査項目の一つである21番染色体異常が「重篤な疾患なのか、誰が重篤さを判断するのか」(東京女子医科大学附属遺伝子医療センター所長・斎藤加代子氏)、「知的障害の一部にすぎないダウン症を診断して、どこに安心があるのだという議論が一向にされていない。もし、遺伝カウンセリングがダウン症でないから安心という形で行われるのであれば、到底容認できない」(日本ダウン症協会理事長・玉井邦夫氏)との意見もある。
とはいえ、近い将来、染色体や遺伝子に関するより多くの情報が分かるようになるのは避けられないというのは関係者の一致した見方だ。「自分たちがどういう遺伝子を持っているのか、望むと望まざるとにかかわらず分かる時代が来た。全てが正常な遺伝子である個体は存在しない。そこを議論の出発点にしなければならない」(前出・平原氏)―日産婦は来月にも「出生前に行われる検査および診断に関する見解」追補版の改訂原案を発表、パブリックコメントの募集を行う予定。追補版のワーキンググループ(作業部会)の議事内容は随時、同学会の公式サイトで公表されている。
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