法政大学社会学部と読売新聞立川支局が共催する連続市民講座「絆(きずな)と縁(えにし) <つながり>を求めて 言葉・地域・地球・自然」(ネットワーク多摩など後援)の第4回が17日、町田市相原町の同大多摩キャンパス2号館(A棟)大教室で開かれた。今回は、三井さよ准教授(37)が、「地域でともに生きる~『障害』をめぐって~」と題して講義した。三井准教授は、障害があることの大変さが障害者だけに押しつけられていると指摘し、社会のあり方に疑問を投げかけた。要旨を紹介する。
■障害とは何か
障害者とは、どんな人でしょうか。学生に聞くと、「障害があるから普通の生活が送れない人」と返ってきます。確かに、私たちは、障害者というと、その人に「障害がある」と考えがちです。
ただ、普通の生活が送れないのは、社会の側がその人に普通の生活を送らせていないだけという考え方もできます。車いすの人は、すべての場所がバリアフリーなら、私たちと同じように普通の生活が送れます。視覚障害者しかいない社会では、逆に、目が見える人が普通でない人になります。障害というのは、その人に属するのではなく、その人と周囲の社会の「かかわりの中に存在している」と言えるのです。
こうした考え方は、1970年代頃から始まった、重度の身体障害者が施設や親元を離れて一人暮らしをすることを支える「自立生活運動」や、障害児が普通学級に通うことを支援する「就学運動」の中から生まれてきました。その後、90年代に、イギリスなどで「障害学」という学問が生まれ、理論化されました。
■理解できないのは誰か
こうした運動や学問の中には、大きな「壁」もありました。知的障害の存在です。重度の身体障害者の自立生活運動では、自分で介助者を使いこなして生活するのが前提でしたが、知的障害者にはそれが難しかったのです。車いすの人は階段にスロープをつければいいかもしれませんが、知的障害者の場合、バリアを外すのは簡単ではありません。
では、知的障害とは何でしょうか。普通、知的障害者というと、「理解ができない人」とか「表現ができない人」と言われています。ただ、これは、先ほどの言い方に当てはめれば、「私たちがその人がわかるように説明できない」「その人の表現を理解できない」とも言えるはずです。
ある重度の自閉症の男性がいました。その男性が一人暮らしを始めたばかりの頃、ヘルパーが夜、家を訪ねると、男性は家にいるのに、家中の電気が消えていたことがありました。そのヘルパーは、後で思い当たったそうです。「普通、家に帰ってきた時、家の電気は消えているもの。彼は、『こうあるべきもの』がその通りでないと動揺してしまう人なので、電気がついていると私も驚くのではないかと考えたのではないか」
これは、ある意味思いやりのある行為です。私たちがその気持ちを受け止められていないだけです。「理解できない」という意味では、私たちもお互いさまです。しかし、私たちは、それをあまり認識していません。障害者が「できない」と考え、理解できないことによる弊害を、一方的に障害者に押しつけています。
■多摩地区での活動
多摩市永山に、自立支援活動を行う「たこの木クラブ」という団体があります。1987年に作られた任意団体です。
先ほど話した就学運動は、障害のある子を普通学級に入れる運動でした。しかし、普通学級に入れさえすれば、すべてがうまくいくのかと言えば、そんなことはありません。イジメが起きたりもします。そこで、「たこの木クラブ」は、子ども同士の関係作りをしようと考え、週に一度、地域で子供会活動を始めました。障害がある子もない子も、一緒になって遊ぼうという活動です。
その後、会の子どもたちが中学校を卒業する頃になると、普通の子と障害のある子の間で、人生が分かれてきました。普通の子は、人間関係を広げ、世界を広げていきましたが、障害のある子はそれが難しかったのです。それならば、働く場を作ろうと、NPO法人「あしたや共働企画」を作りました。
また、支援費制度の始まる1年前の2002年、ホームヘルパーに国からお金が出るようになることを見越して、NPO法人「まくら木」という支援者派遣部門も作りました。「たこの木クラブ」は、このように枝分かれした団体と連携し、自立生活を支えています。
現在、「たこの木クラブ」を通して一人暮らしをしている人は、6人ぐらいいます。彼らは、言葉を話せなかったり、自閉が強かったりする人たちで、私も最初、「この人が一人暮らしをするの?」と驚きましたが、「たこの木クラブ」では、「どんな人でも一人暮らしができるのが当たり前」というスタンスで支援をしています。
■当たり前を目指す
「たこの木クラブ」が目指しているのは、「当たり前のこと」です。
就学運動から考えてみましょう。知的障害児が普通学級に通う場合、「勉強についていけないからかわいそう」という人がいます。ただ、私たちが学校に通うとき、勉強のことだけを考える訳ではありません。勉強だけなら家庭教師をつければいい話です。学校は、子ども同士の人間関係を作る場でもあります。「イジメを受けるからかわいそう」という考え方もあります。でも、どんな子どもだってイジメを受ける可能性はあります。
障害児が、普通学級に行くことは「いいこと」だと思いますか、「悪いこと」だと思いますか。普通の子の場合、まずこんな質問自体がされません。いいとか悪いとかではなく、当たり前のことだからです。
障害児の親御さんは、普通学級に通わせるか養護学校に通わせるかの選択を突きつけられ、本当に迷います。普通学級に行っても、我が子がけがをして帰ってきたらつらいものです。普通の子の場合、小学校に上がる時にそんな選択はありません。なぜ、障害児を持つ親御さんだけ、そうした選択を迫られなければいけないのでしょうか。そうした選択を迫る社会のことは、どうして問われないのでしょうか。
■私たちの問題
知的障害者が地域の中で暮らしていると、激しい排除もあります。ある男性は、これまで数回、引っ越しを余儀なくされました。
一方で、あるコンビニの店長さんは、店のガラスを割られたのに、「あの子、手をケガしなかった?」と心配してくれました。これは、その当事者が以前から地域で暮らしていることを、店長さんが知っていたからです。理解できないことをされても、相手が知り合いなら、さほど気にならないということもあるでしょう。
地域で暮らすというのは、人とのかかわりの中で暮らすということです。遠くの出来事ではありません。「私たち」がかかわることになります。その時、理解できないから、気持ち悪いからと言って、施設に入れようと考えますか。それは、認知症の高齢者も、みんな施設に入れてしまえという思想にも近づきますが、それでいいのでしょうか。
「支援者が十分に面倒をみてくれるなら、地域で暮らしてくれてもいい」と言う人もいます。ですが、当事者の理解しがたい行動は、実は私たちの行動に対する反応として生まれたものなのかもしれません。それならば、支援者任せにすればいい問題ではなくなります。
これは、障害者を「許してあげよう」という話ではありません。ある女子学生が、「子どもの頃、知的障害者に痴漢にあったことがある。だから、先生がなんと言おうと、障害者は気持ち悪いと思ってしまう」と話していました。これは当然のことです。障害者だろうが、おかしいことはおかしいのです。障害者を「許す」のでもなく、排除するのでもなく、障害者がいることを前提として、社会をどうするのか、地域というものをどう考えていくのか。それが私たちに問われています。これは「障害者」の話でも、支援者の話でもありません。私たち自身の話なのです。
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