『北京かわら版』特集「中国の自閉症児たち」③

時のたつのは本当に早い。気が付くと「星星雨」は7回目の誕生日を迎えていた。信じられない思いがするが、私が北京に来て早や7年が過ぎた。これは私が開設した「北京星星雨教育研究所」が7年の風雪に耐えたことを意味している。

 

 

一、息子が自閉症に

1989年秋、山深い重慶は普段と変わらぬ灰色の濃霧に覆われていた。当時私はまだ重慶建築工程大学の管理工程学部の教師だった。西ドイツでの留学を終え1年が過ぎたばかりの私は、外国で日夜思いを馳せていた我が子「楊韜」が、3歳になるというのに、まだ言葉が話せないとは夢にも思ってみなかった。疑いとためらいの日々を過ごし、私は息子を連れて病院に行った。あの灰色の薄ぼんやりした秋の日、重慶医科大学の精神児童科の問診部で医者は私にこう告げた。

 

 

「お子さんは重い病気にかかっ ています」

「何の病気ですか?」

私はビクビクしながら尋ねた。

「自閉症です」

医者の答えはまるで私には謎かけのようだった。

「治るんでしょうか?」

謎の中から私は聞いた。

「今のところまだ方法がありません。それというのも病因が解明されていないのです」

私の体は震え始めた。

そして医者に向かって最も気にかかっていた問題を持ち出した。

「それでは、この子はこれからどうなるんですか?」

「分かりません。私も成人した自閉症患者を見たことがないのです。恐らく楽観はできないでしょう。日常生活は介添えなしでは無理でしょう」

この医者への3つの質問と医者からの三つの答えが、私のその後の人生を変えた。

 

 

二、「星星雨」設立へ

息子が自閉症。この事実が一人の母親の夢を壊した。私は悲嘆に暮れた。でもさらに私を絶望の淵に追いやったのは、当時の中国では何の助けも得られないということだった。私にはどうしたらいいかを教えてくれる専門の機関も人もいなかった。私は一生を息子のために生きようと思った。でもそれに満足できない自分も私のなかにあった。なぜなら、それは私が望んだ人生ではなかったから。

 

2年後、息子と同じ年の子供達が小学校の予備クラスに入り、当然のごとく義務教育を受けていた時、私の息子は障害があるという理由で「当然のごとく」学校の門をくぐれず、家にいるしかなかった。そしてこの時、私はついに分かったのだ。もし、私が一生彼のために生きたとしても、彼が1人の人間として享受すべき権利を保証することができないということが。私はよくこう言っていたものだ。「もし、私を粉々に砕いて、1本の道をつくることができるのなら、そしてその上を息子が安全に、自分を卑下せず自立した未来に向かって歩いて行けるのなら、私は喜んで粉砕機に入るだろう」。しかし、こんなことは何の役にも立たない、私は息子のためにそんな道を作れないのだから。自閉症に対して私はあまりにも弱くあまりにも無力だった。私は全ての自信を、この先生きていく希望を無くしていた。

 

こうして他の自閉症児の父母と同様のつらい心理過程を経て、私は重慶を離れた。そして私が愛する大学教師の職業を捨て、(これは同時に「飯の種」を捨てることでもあった。)一人で北京に来た。私は1ヵ月かけて場所と教師を探し、1993年3月15日に、ある幼稚園で「自閉症児訓練クラス」を開設した。こうしてこの「星星雨」の前身は、第1回の6人の自閉症児を迎えた。

 

この時、私は「中国の社会に自閉症児を理解してもらいたい。自閉症児に手をさしのべてもらいたい」という希望を両手に持っていた他にはほとんど何もなかった。技術資料も金もなく、専門の教師もいなかった。私とあと2名の親、それに児童師範学校を卒業したばかりの若い女性教師四人は、何もない空白の中で勉強しながら仕事を続けた。

 

2ヵ月後、この幼稚園は私たちが利益を出さないという理由で協力を停止した。私たちは追い出され、訓練クラスは解散した。もし、訓練を受けた当時の子供たち6人に、それぞれ何らかの進歩がなかったとしたら、私は本当に学校運営を放棄していたかもしれない。しかし、この2ヵ月の経験は私たちに教えてくれた。私たちは自閉症児を助けることができる、私たちはもっと効率的な指導ができると。

 

私は引き続き場所を探し、イスとベッドを借り、親と先生から寄付してもらった本やおもちゃを使い、自閉症児の訓練方法を模索し続けた。ようやく、1993年の年末、北京星星雨教育研究所が正式に登記され設立できた。この時まで私たちは3回場所を変えていた。そして部屋代を払えない状況にありながらも、訓練を積み、経験と親達の信頼を得ていた。

 

「星星雨」は大きな困難の中で希望を求めて、一歩一歩前進していった。

 

 

三、困難はいつでも「星星雨」に付きまとう

 

1、専門の資料、人材の不足

「星星雨」を開設したばかりの頃の私は1冊の台湾の小説のコピー以外情報はなにも持っていなかった。私は母親であるというだけで、何が正確な訓練方法か全く分かっていなかった。数名の児童師範学校の卒業生たちは、こうした子供達と接するまで「自閉症」という単語すら聞いたことがなかった。その上、自閉症児を訓練する機関がどんなものなのか、カリキュラムはどのように組んだらいいのか、テストや評価は何を根拠にしたらいいのか……、こうしたことも私と私の同僚達は何も知らなかった。勤務条件の過酷さと、子供たちからの精神的圧力で、4人の先生は最後には2人になった。

 

2、経済的な圧迫

「星星雨」は民間の機関として登録されたため、政府や社会のその他の機関からの何の資金援助も得られなかった。家賃、給料などは初めから今に至るまで大きな課題となっている。家賃が払えないため、最初の4年間に私たちは4回引っ越し今に至っている。私は今でも度々追い出され引っ越す夢を見る。給料が少ないため、まねいた先生達は走馬燈のように去っていった。

 

親からの学費だけでなんとか給料などの通常の支払いをまかないたいと思うが、親たちも障害児に対して何の補助も受けてはいない上、多くの家庭では親の給料の中から学費を支払い、また子供の未来も背負っている。そんな親から私たちは多く学費を取る訳にはいかず、できるだけ低く学費を抑えているため、7年来赤字という状況は改善されていない。

 

 

「3」 2000年4月号(102号)