事故
◆事故で体が半分に切断された男性◆
彭水林さんが下半身を失ったのは、2004年3月のことでした。当時46歳、湖南省湘郷県に住む彭さんはトラックにはねられ、腹部、骨盤および大腿骨を損傷、修復は不可能と診断され、臍下部分を切断するに至りました。入院したシンセン市の布吉醫院では半年以上も死線をさまよいましたが、生き残りました。162cmあった身長は、その半分の78cmに。体重はわずかに33kgとなりましたが、強靱な精神と妻の周愛群さんの必死の看護の末、この世に踏みとどまったのです。
傷口は頭皮をもちいて縫合。臍の横に孔をあけて残った腸管を外に出し、人工肛門を設けて便を排出。背中には腎臓から延びた尿管がこれまた露出し、尿はこちらから袋に溜めて排出。男性器はありません。
事故にあってから数ヶ月間、何をするにも妻の手を借りた彭さんでしたが、ダンベルや腕立て伏せで両腕を鍛え、筋力をつけ、今では片手で体を支えながらもう片方の手で食事、歯磨き、洗顔なども問題なく行えるそうです。しかし、悩みは、失った筈の脚の痛みが時折訪れること。まるで鋭利な刃物でゆっくりと脚を切り刻まれるような痛みだとか。医者の話では10年ほどはこのような痛みが残るということですが、不意にあらわれるというこの痛み、ひとたび訪れると寝付くこともできません。尿管からの感染症も心配です。
「今では上半身だけとなった自分の姿にもきちんと向き合うことが出来るようになった」と笑う彭さんですが、それまでの道のりは、決して平坦でなかったことは、インタビューでわかります。
最初、女房や子供はただ泣くばかりで何も話してくれなくってね。手術を終えてたいしたことないと思った私は、あまりに二人の泣き声がうるさくて叱った憶えがあるよ。まだ脚の感覚はあったしね。 でも自分の姿に気づいたときに愕然とした。髪も真っ白になっていた。 自殺も考えたが女房の献身的な介護に心うたれた。見ればこんなにいい女房、こんなにいい息子がまだ自分を慕っている。ここで死んじまったら申し訳ないじゃないか。この2年間、たしかに辛い道のりだったよ。治療費で文無しになったしね。でも病院では費用の一部を免除してくれたり、善意の寄付もあったりでなんとかやってこれた。いまでは雑貨を売ったり新聞を売ったりしてそれでも家族仲良く暮らしていってる。北京では関心をもって迎えられたことがなによりもうれしいね。ひとつ、こんな私が言いたいのは、人生でどんなに不幸なことがあっても、命だけは粗末にしないでほしいということだ。
また妻の周愛群さんはこう語っています。
事故がおこった当初はただ何も考えられずに泣いてばかりでした。一度などは病院の8階から身投げしようと思ったこともあります。でも夫はよくしてくれましたし、16になる息子も必死でした。お医者さんにも出来うるかぎりのことをしていただいて、ここで私が肩を落としたらいけないと思いました。(夫が男性器をも失ったことを訊かれて、笑いながら)そう、それは息子からも言われましたわ。 でも人が何を幸せと感じるかはさまざまでしょうけど、夫婦で苦楽を共にし、毎日家族がそろって暮らしていること、わたしにとってはそれが幸せなのです。
2006年12月3日の「国際身障者デー」に、妻の周愛群さんの介護のもと、彭さんが北京を訪れ、天安門などを見学しました。ベルトで体を固定することが出来ないために、飛行機の搭乗は断られましたが、列車では、車掌が彭さん家族のために余裕をもって寝台を確保、食事も無償で提供してうれたそうです。はるばる長沙から北京西駅へと降り立った彭さんは、長い旅の疲れもみせず、忙しくあたりを見まわしては口元に笑みを浮かべ、妻や息子と歓びを分かち合っている様子でした。
---人生でどんなに不幸なことがあっても、命だけは粗末にしないでほしい---
このような逆境を乗り越えた人の言葉は、本当に重いですね。
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◆ミス地雷コンテスト◆
戦禍の美人コンテスト。提唱したのはノルウェーの舞台監督、モルテン・トラーヴィク(Morten Traavik)氏。参加する女性が、いずれも地雷によって欠損した四肢を露わにし、どのような境遇でどのような仕事に就いていたかなどインタビューに応じるという形式。
画像は「2008年度ミス地雷コンテスト(Miss Landmine 2008)」の優勝者。
コンテストにエントリーされている女性は全員で10名。それぞれ19歳から35歳の州代表とあり、将来就きたい仕事、好きな色と、また身につけた衣装や宝石、ロケーションのなども記されています。衣装や宝石などは女性に提供され、また撮影には一日あたり200ドルが彼女たちに支払われました。
「『ミス地雷』を決める。それ以上のものでも以下でもない」と語るトラーヴィク氏がこの着想を得たのは、四年前、アンゴラの首都ルアンダに訪れ、この国に20年以上続いた内戦と国土に埋設された夥しい数の地雷による被害を現実に自らの目でみたことからといいます。それと同時に、アンゴラの人々の「美」に対する意識の高さを知った(アラーヴィク氏)ことも、舞台監督たる氏の何かを揺り動かしたのかもしれません。
「地雷最汚染国」といわれるアンゴラでは、いまだ国土の約35%、約44万平方キロが地雷原とされ、欧米や日本などの援助によりNGOが撤去作業を続けていますが、2002年~2004年までに撤去されたのは、僅かに約12平方キロ(JICA-国際協力 2005年2月号)とされています。
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