その他の奇病
◆まるでバービー人形・カナダの親指姫◆
父親のコート・ブロムリーさんに抱かれているのは、カナダはオンタリオ州に住むケナディ・ジャーディン・ブロムリー(Kenadie Jourdin Bromley)ちゃん(2007年当時4歳)。まるでバービー人形かと見紛うその容姿は、身長が66cmに体重が4,5kg。体が小さいほかは、知的にも問題なく、歩くことも食べることも、お喋りすることも普通の女の子と変わりません。
ケナディちゃんの症状は、primordial
dwarfism――原発性小人症、世界で100名ほどいるそうで、日本語としての正式症例名はありません。通常の妊娠期間を経ながらも、出生時の体重は900グラム。普通の新生児の4分の1、足のサイズは3.8センチ。未熟児と間違われるほど小さな体で生まれてきました。両親はケナディちゃんをオンタリオ州の幾つかの医者に診せる度、生きながらえるのは困難、最高で40歳、身長は91cmを上まわることはないだろうと言われました。
「最初は泣き声が聞こえませんでした。でも彼女は生きていました。子猫みたいな泣き声がかすかに聞こえてきたのです」と、生まれた当初はわが娘の姿に啜り泣いたという母親のブリアニーさんですが、今では父親同様、目の中に入れても痛くないようです。病院のナースたちも、ケナディちゃんのことを「親指姫」と呼んで可愛がりました。
健康体で、身内に小人症の人がいないので知らなかったが、実は両親は、共に同じ遺伝子異常を持つきわめて稀な組み合わせのカップルだったのです。2人の遺伝子を受け継ぐ子供は、4分の1の確率で原発性小人症になってしまう可能性がありましたが、次に生まれた弟・ケナディちゃんは4分の3の方だったのです。
原発性小人症の世界的権威であるチャールズ・スコット博士は言います。「カップルが互いにこの遺伝子異常を持っていたことがわかるのは、原発性小人症の子供が生まれたときだけです。この遺伝子変異は、原因がまったく不明であり、防ぐことも変えることもできません。純然たる偶然の問題なのです」
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◆クシュラの奇跡◆
クシュラは、1971年ニュージーランドに染色体の異常により、身体と知能に障害を持って生まれました。染色体に異常があると、視聴覚・内臓・形態・知能・運動など・・・身体のあちらこちらにさまざまな症状を伴います。「呼吸にトラブルがあり1時間も寝ていられない、年に何度も危篤状態になる、何度も入院や手術をする」といった重度の障害で、知能的にも精神遅滞で、外見も異なる。彼女と同じ障害を持つ者は、生後1年以内に90%が死亡すると言われているくらいです。
それでも、若くして子供を持った(母親は20歳、父親は21歳)クシュラの両親は希望を捨てずに、娘を育てました。医師の言いなりにはならず、子供の可能性を信じ、何の反応も示さないわが子を抱いて絵本の読み聞かせを始めました。3歳までに母親が読んだ本はなんと140冊。繰り返し繰り返し、本によっては100回以上、クシュラがフレーズを丸暗記するほど読みました。母親は、いつも片手にクシュラを、そして片手に絵本を持ちながら、世話を続け、10分置きくらいに、クシュラの言ったこと、成長の証になるものをメモしていったそうです。そうしている間に、徐々にクシュラは絵に物語に興味を示すように。めくるめく絵本の世界と語られる言葉の洪水、そして絶え間ない両親とのスキンシップは、クシュラの脳を刺激し、彼女の心を外へ外へと向かわせました。
そして奇跡が起こります。1歳まで育つのも難しいと言われる中でクシュラは生き続け、3歳になる頃には、
身体のハンディはあったものの、知能面では他の子供と遜色ないほどの発達を見せ、言葉を増やし、そして精神的にも成長をしていきました。
障害を持って生まれた子供の場合、生活に最低限必要な寝食に焦点があてられ、特にずっと寝かされていることがあります。特に病院に入院してしまった場合、脳への刺激はかなり少なくなってしまいます。肌をさする、声をかける、抱き上げる・・・五感を通しての物理的な刺激、音や言葉による知能への刺激全てが子どもの脳への刺激になるのです。小児科医の勧め通り、施設に入れていたら、両親は楽ができたでしょう。でも、クシュラの親は、決して諦めないで、闘い抜きました。
一般の子供と一緒に学校に通い、そして成人。すると、母パトリシアはクシュラに「自立してみてはどうか」と驚くべき提案をします。両親がいなくなっても、彼女が生きていけるようにと将来を考えてとのこと。両親の元を離れてから数年後、母は40歳の若さでこの世を去りました。2012年現在、クシュラは40歳。「ずっと勉強を続けなさい。」という母の遺言を守って、3人で共同生活をしているそうです。
並々ならぬ両親の努力の日々がなかったら、今のクシュラはありません。
本当にすごいと思います。
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◆エレファントマン(像男) ジョゼフ・メリック◆
ジョゼフ・ケアリー・メリック(Joseph Carey Merrick)は、ヴィクトリア朝時代のイギリスで身体の極度な奇形から「エレファント・マン」(The Elephant Man)として知られた人物。
1862年、イングランドのレイセスターに生まれました。生後21ヵ月の頃には身体に変形の兆しを見せはじめ、左腕などを除く皮膚、骨格の大部分に特徴的な膨張と変形をきたし、いつしか片腕は完全に動かなくなりました。11歳になる年に母メアリー・ジェーン(彼女もまた何らかの障害を持っていたと言われる)を亡くし、父親は別の女性と再婚。父親に”ジョセフか私か”と決断を迫るくらい義母はジョセフを毛嫌いし、結果家を追い出されました。一時期、叔父のもとを頼ったり、レイセスター・ユニオン・ワークハウスで靴磨きの仕事を始めたりしましたが、彼が働いていると異様な風貌からすぐに人が集まり、子供達が彼を虐めたため、17歳で救貧院に入ることになりました。
数年の収容生活にも明るい見通しはなく、21歳のメリックは見世物興行に働き口を求め、サイドショーに出演するようになりました。皮膚がザラザラとして象のようであること、また顔面の腫瘍が象の鼻のように見えたことから、「エレファント・マン」の名がつけられ、「妊娠中の母親が象に踏まれかけたショックのため」などと宣伝されました。メリックの面倒を見たのは、興行師のトム・ノーマンという人物。映画「The Elephant Man」の中ではこっぴどくメリックを扱う悪人風に描かれていますが、実際のところ、サイドショーで大人気であったメリックに対して、ノーマンは、実際に自活できるだけの収入(1か月200ポンドくらい)を与え、非常に紳士的であったみたいです。
しかし不幸なことに、ある日ノーマンの知り合いであったオーストリアの興行師がメリックを誘拐し、ベルギーへと連れ去ってしまいました。そこで何とかサーカス小屋を脱出したメリックは、ベルギーを放浪した末に、イギリスへ帰国。リヴァプールの駅で彷徨っているところを、医師のフレデリック・トレヴェスに救われました。
保護されたとき、メリックは極度な栄養失調と気管支炎を患っていた為、ホワイトチャペル病院に入院し、やがて、その病医の一室こそがメリックが生涯住まう家になりました。部屋をあてがうための寄付を募る投書がきっかけで広く同情を得、やがてアレグザンドラ皇太子妃の訪問を受けるなど、上流社会である種の名声を得るように。重い症状にも関わらず非常にイマジネーション豊かで、知的、部屋の中で、詩や散文を書き、模型を作って過ごしたといいます。特に彼が得意としたのは、セント・フィリップス・カテドラルの模型でした(写真一番右。映画の中では、彼が部屋の
窓からカテドラルを見て作ったことになっていますが、
実際には建築の設計ドローイングを勉強していたようです)。
1890年4月11日、すでにかなりの衰弱をみせていたメリックは、正午まで起き出さないのが通例になっていましたが、研修医が午後の回診に来たときには仰向けに寝たまま亡くなっていました。27歳の若さでした。死因は頸椎の脱臼あるいは窒息死とされ、一見したところ事故死でしたが、自殺ではないか。。。とも言われています。というのも、頭部の巨大さから、普段はベッドの上に座り、抱えた両膝に頭を乗せるようにして寝ていたのですが、この日に限って仰向けに寝ることを試みたようだったからでした。
死後、フレデリック・トレヴェスは後に「エレファント・マンとその思い出」という本を著し、亡骸各部の石膏型および骨格標本が保存されて研究の対象となっているほか、いくつかの遺品は今でも大英博物館にその骨格が収蔵されています。皮膚などの組織標本は、残念ながら、第二次世界大戦下で失われてしまいました。
メリックの疾患は、骨格の変形と皮膚の異常な増殖からなっていました。皮膚は各所で乳頭状の腫瘍を示し、とくに頭部や胴部では皮下組織の増大によって弛んで垂れ下がっていました。右腕・両脚がひどく変形肥大して棍棒のようになっていたのに対し、左腕や性器は全く健全。上唇から突出した象の鼻状の皮膚組織が一時は20センチ近くに達し、このため会話や食事は終生不自由で、救貧院時代にいったん切除しています。会話は困難でしたが、知能は正常で、12歳までは学校にも通っていて読み書きは堪能。少年時代にひどく転んで腰を痛め、脊柱も湾曲しており、歩くときは杖が必要でした。
70年代当時は、彼の症状は”象皮症”(寄生虫によって引き起こされる足や睾丸に巨大な腫瘍を生じ、肥大化する病気)やレックリングハウゼン病などとして知られる神経線維腫症1型によるものであると考えられていましたが、1979年になると、特定の遺伝的疾患群をさす”プロテウス症候群” (通称”エレファント・マン病”)として知られる疾病であるとい説が提唱されました。この症候群は、骨や皮膚、
その他器官系の肥大化を引き起こす疾病で、医学誌上においても、これまでおよそ100例程度(通常の神経繊維腫症は4000人に1人程度で発生)しか記録が残されていない極めて稀な疾病です。
例えプロテウス症候群であったにせよ、ジョセフ・メリックほどの過酷な症状はほとんど例がないといわれ、メリックの生涯がいかに過酷だったのか・・・想像できません。
1979年から1980年にかけて、舞台と映画の両方で彼の生涯が取り上げられ、再びメリックは脚光を浴びることになりました。両作品はいずれも大成功を収め、1979年の演劇作品『エレファント・マン』はトニー賞を受賞、また翌年の映画『エレファント・マン』はアカデミー賞に輝き、多くの人々に感動を与えました。
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◆半身の女性 タイニー・ラヴォンダ・エヴァンス◆
身長45cm、体重約15kg、足は大きく変形しており、あたかも足がそのまま肋骨の下から伸びているような姿に見られたタイニー・ラヴォンダは、おそらく骨形成不全症を患っていたと想われ、時にハーフ・レディ(半身の女性)などと呼ばれていました。
ラヴォンダはサイドショーでピエロ役を演じていたドワーフのアルヴァ・エヴァンスと結婚し、1951年、子供を出産しましたが、その子供は、残念なことに、呼吸困難で産後間もなくして死亡してしまったそうです。
◆全身を「魚鱗」でおおわれた男性◆
中国は雲南省の撫仙湖。 海抜1750メートルの高地にある湖で、淡水湖としては中国2番目の155mという深さがあるそうです。
澄みきった湖面より水草のたなびく様子が見てとられ、高原の爽やかさと湖水の清涼を併せ持つこの地、澄江県備楽村で魚釣りをして暮らす一人の若者がいます。 彼の名は孫成さん。 8歳の頃から湖に親しみ、10歳の頃にはすでに魚釣りで細々ながら生計をたてていた孫成さんですが、彼の名は村の四方に知られています――全身に 「魚鱗」 をもつ男として。
背はどちらかというと小柄で色白。顔は唇をのぞいてほぼ全面、角質で覆われ、見ているうちにも口元の乾燥した皮膚が破れ、血色が滲んできます。上下の目蓋は痙攣してこわばり、見たところ、鱗状の角質は首から下、手に足にと全身におよんでいるようです。全身を覆っている角質はきめ細かく、触った感じといえばまるで象の皮膚のよう。大方は灰色ですが、足の角質は暗赤色。驚いたことには足の裏、土踏まずにも角質は続き、左足の親指は欠損しています。角質がいちばん厚いのは額で、これは本人いわくいちばん剥がしやすいゆえにいつのまにか分厚くなったとのことです。
孫成さんの幼少の記憶は、苛めと嘲笑とに彩られていました。思い出す最も古い記憶は、村の子供たちが家の外で彼の名を呼んだことにはじまるそうです。初めて同い年の子らに名を呼ばれ、いそいそと外に飛び出した孫成さんは、子供たちに囲まれ、じろじろと眺められて帽子を飛ばされ、笑われ、近づこうとすると棒で打たれました。泣きはしませんでした。 自分は他人とはちがっていることは薄々感じていたそうです。しかし辛さゆえ、以降積極的に交わろうとはしませんでした。部屋に籠もりがちになり、道端で遊ぶも人影が見えるとすぐに家に駆け込む毎日。外に出るときには夏でも肌が隠れるものを着、家にもどるとあまりの痒さで全身を血が流れるままに掻きむしったそうです。
就学の年齢となり、母親に連れられた孫成さんは入学申請で学校に行きました。しかし、担当の女性が他の児童が怖がるからと孫成さんを拒絶したために現在でも字は読めず、自分の名前さえ書くことは出来ないそうです。もちろん両親はあらゆる病院に孫成さんを診せにいきましたが、原因はまったくわからず、都市の病院に行くにはお金がありません。母親は孫成さんに腕時計を買ってあげ、彼が欲しがっていた釣り竿を与えて毎日自転車に乗せて、この湖、撫仙湖に連れていったそうです。そこで彼は泳ぎと魚釣りを覚えました。
水辺にいるときがいちばんの解放感を感じるという孫成さん。今では数少ない友人とたまに夜の湖畔でビールを飲んで酔うこともあるそうです。しかし夏場の盛りは、水にはいってもその後の皮膚のひび割れが凄まじく、訪れられないことも多いとか。アイドルの写真をいっぱいに貼った部屋で枕許のMP3プレーヤーで音楽を聴きながら床にはいる孫成さんですが、目を閉じると目蓋がひっつれて痛く、将来のことも考えては悶々としながら、朝方になってようやく眠りにつく昨今だといいます。